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モンロー(、歴史的呼称)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州で8番目に大きな都市である。ワシタ郡の郡庁所在地である。2010年国勢調査での人口は48,815人だった。2000年の53,107人から8.1%減少していた。 モンローは、ワシタ郡とユニオン郡で構成されるモンロー大都市圏の主要都市である。都市圏人口は2000年時点で170,053人、2007年7月1日時点の推計で172,275人だった。この都市圏にモアハウス郡を合わせてモンロー・バストロップ広域都市圏を構成している。この広域都市圏の人口は2000年時点で201,074人だった。 モンロー市と近くにあるウェストモンロー市(人口13,250人)はワシタ川を挟んで対岸に位置しており、北東ルイジアナのツインシティと呼ばれる。 == 歴史 == ファイル:Monroe, LA, Convention Center IMG 1292.JPG|モンロー会議場、市役所の対面にある ファイル:St. Matthews Catholic Church, Monroe, LA IMG 1299.JPG|セントマシューズ・カトリック教会、モンロー市中心街 ファイル:First Baptist Church, Monroe, LA IMG 1300.JPG|第一バプテスト教会、モンロー市中心街 ファイル:Chapel at LA Baptist Children's Home in Monroe, LA IMG 1310.JPG|フランク・"バディ"・フラワーズ礼拝堂、ルイジアナ・バプテスト子供の家児童養護施設 ファイル:Washington Plaza in Monroe, LA IMG 1296.JPG|ワシントン・プラザ、モンロー市中心街 この町は元フォートミロと呼ばれていたが、蒸気外輪船''ジェイムズ・モンロー''からモンローの名前を採用した。この船の到着が開拓者に大きな影響を及ぼし、地元住民の心の中で単一の出来事が前進基地を町に変えた。この船は18番通り北にあるモンロー図書館の本館壁画に描かれている。それ故にバージニア州出身で第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローからその船の名が付けられたことになっている。 南北戦争のとき、モンローと、南ルイジアナのセントランドリー郡の郡庁所在地オペルーサスには、南軍の訓練キャンプがあった。1862年にルイジアナが北軍に占領された後、これらが設立された。間もなく新兵が両キャンプに送られた〔John D. Winters, ''The Civil War in Louisiana'', Baton Rouge: Louisiana State University Press, 1963, ISBN 0-8071-0834-0, p. 149〕。 1862年、モンローとリッチランド郡デルハイが、東部の田園部からの歓迎されない避難民で混雑するようになった。彼らは北軍のユリシーズ・グラント将軍の軍勢から逃れてきており、グラントは北東ルイジアナに入り、1862年から1863年の冬をテンサス郡ニューウェルトンの南、ウィンター・クォーターズで過ごした。グラントはミシシッピ州ヴィックスバーグの包囲戦の準備をしていた。それが完成するのは1863年7月4日まで掛かった。歴史家のジョン・D・ウィンターズは、デルハイとモンローに「強い北軍同調観」があったと報告した。避難民はさらに西のウェブスター郡ミンデンまで移動したので、大変貧乏だった地元住民は彼らに食料や隠れ家を売るのを拒み、侮蔑の気持ちで彼らを扱った〔Winters, pp. 307–308〕。 北軍のボートがワシタ川を遡ってモンローまで来て、コーフィー、アルコール、乾物を交易し、さらに金で綿花を買った。南軍の士官は交易を奨励し、敵と親しく交わり、その牡蠣を食べ、そのアルコールを飲んだと市民から告発された〔Winters, p. 406〕。戦争が続くと、モンロー周辺に脱走兵や落伍兵が多くなったので、北軍は彼らを捕まえるためにアレクサンドリアから特殊部隊を派遣した〔Winters, p. 416〕。 1913年、コカ・コーラの最初の瓶詰業者であるジョセフ・A・ビーデンハーンがヴィックスバーグからモンローに移動してきた。その家と庭園はモンロー市リバーサイド・ドライブ2006にあり、現在はビーデンハーン博物館と庭園として運営されている。ビーデンハーンが事業化するまで、コカ・コーラはソーダ・ファウンテンと混ぜて飲んでいた時期があった。ビーデンハーンとその息子マルコーム・ビーデンハーンが、デルタ航空、当初はデルタ・ダスターズの創業者に入っていた。 コレット・E・ウールマンは元々インディアナ州から来たワシタ郡のエージェントであり、ワタミゾウムシを絶滅させる農薬散布法を開発した。ワタミゾウムシは20世紀初期にミシシッピ川デルタ地帯で綿花を壊滅させていた。ウールマンは世界で初の農薬散布サービスを始めた。綿花栽培が崩壊したことで大移動が起こり、数十万人のアフリカ系アメリカ人が南部田園を離れて、北部や中西部の都市で職を求めて移住した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モンロー (ルイジアナ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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